ようこそ、武蔵七党の一つ児玉党一族の大類氏についてのページです。

群馬県高崎市

群馬県高崎市

大類城(おおるいじょう)

  • 和田城の東3.5kmの平坦地に築かれ、和田城の三方に配された支城の一つ。この城は永禄9年(1566)箕輪城が落城した後のもので、和田氏が築き、新後閑右京亮(しごか うきょうのすけ)が城代として在城、天正18年(1590)に廃されたと推定される。
  • 囲郭式の城で本丸は方70m、南面中央に喰違い虎口(くいちがいこぐち)がある。二の丸は本丸を囲み、東部が別郭になっていた。これらの中核部の堀跡は堀端(ほりばた)と呼ばれ、桑畑中の細長い水田となって残っている。外側約100mにある判形(はんがた)・安中屋敷(あんなかやしき)・原邸(はらと)などの環濠遺溝は、築城前からの屋敷跡で、外堡としても用いられたことであろう。
    『日本城郭体系 4』
  • 堀を含めた本丸の規模が東西約90m、南北約95mのほぼ方形の郭であること、城の中央部よりやや東側に本丸を設けた複郭式の大規模な城であることなどが分かっている。
    『宿大類町村西遺跡』
  • 高崎市宿大類町の西部(字村西)に大類城址が半ばのこっている。東西390m、南北360mの本城と至近に配置された4ヶ所の支堡からなる。
  • 中心は熊野神社東側の桑畑で、本丸北堀と西堀を除き堀跡はおおむね容易にたどることができる。それらは堀畑と呼ぶ水田になっているが、「堀端(ほりばた)」の転訛であろう。
  • 本丸は方90m、それを囲む二の丸は、本丸の北、西、南を囲む主要部と東の分郭とから成り、分郭間は堀で仕切られる。東の分郭は南北100m、東西75mの長方形で、主要部はコの字形に本丸を囲み、東西、南北とも150mある。
  • 二の丸の北、西、南を囲む五つの外郭を、東西のものから、慈願寺郭、藤の木郭、西南郭、西郭、北郭と仮称する。
  • 慈願寺郭は東西80m、南北110m。藤の木郭は東西60m、南北80m、南面中央に藤の木門があった。西南郭は東西100m、南北50m。西郭は東西90m、南北も90mの梯形である。北郭は中央が幅30mに狭まり、西部には熊野神社が祀られ、「内宮」と呼ばれている。郭の東西は130m、南北は110mほどの不規則な形で、東部は東西南北とも150m、西部は南北80m、東西90mである。
  • 本丸の虎口(こぐち)は南面のものだけ顕著だが、東面、西面にもあったのであろう。南虎口は順の喰違(くいちが)いになっている。二の丸南部はこの虎口の郭馬出しの性格であったと思われる。
  • 北郭の北の水田は沼沢(しょうたく)地であったらしく、沼尻(ぬまじり)の地名が残る。沼尻の東にある墓地の土壇は鬼門除けであろう。
  • 城の西北にある原屋敷、東にある判形等4ヶ所の環濠塁址(かんごうるいし)は、大類城が特別な地障を要害として備えていないために設けられた外堡と推定できる。
  • 原屋敷は、島名城における桜屋敷に対比される大類城築城以前からの遺溝であろうか。
  • この城は永禄9年(1566)箕輪城の落城に先立って自落し、武田氏時代には和田城の支城となった。城代は和田の騎馬衆であった新後閑右京亮(しごか うきょうのすけ)がつとめ、天正18年(1590)廃城と推定する。
    大類城
    『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』より、クリックで拡大


大類舘(おおるいやかた)

  • 南大類町字舘に「舘(たて)」と呼ばれる所がある。北側に一貫堀川があり、東西200m、南北150mの囲郭形式で、内郭はは方80m、南面の虎口は濠幅半ばの喰違い構造を示す。
  • このことから遺溝は戦国期のものと推定しなければならないが、「舘」の名称から考えれば遥かに古い遺跡と思われる。おそらく大類太郎の舘址(やかたあと)で、戦国期にも改修使用されたのであろう。
    『群馬県古城塁址の研究』


大類寄居(おおおるいよりい)

  • 下大類町字寄居には濠と土居をめぐらした小堡がある。方70m、虎口は南にある。数年前(筆者註:1960年代後半)、濠も全く埋められてしまった。北から東をめぐる諏訪堰、西から南の一部を囲む長野堰の水路は外濠址と考えられるので、外郭は東西140m、南北も同じ程の囲郭構造であったと推定される。
    大類寄居
    『群馬県古城塁址の研究』より、クリックで拡大


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