幕臣大類氏の系譜
- 村上源氏流赤松氏の支流としての大類氏がある。この流れの大類氏は、前項までの氏と異なり、発祥及びその地域は西国である。ただ、現在までのところいつの頃にこの流れの大類氏が出自したかは詳らかではない。
- かつて
「児玉党の武者二郎行綱の弟・秩父平四郎行高の娘、赤松播磨守則景の室になる」
といい、また
「則景の子、児玉庄左衛門尉忠行の養子となり、上野に住して奥平新左衛門尉氏行と称す」
などの記録が見られるので、赤松・児玉の両氏は早くから繋がりがあって、大類氏もその縁によりこのように称するに至ったのかもしれない。『大類一族』
- 以下に掲げる系譜は『寛政重修諸家譜』の「巻第千三百十二」に村上源氏流として所収されている大類氏である。
- 家紋は『丸の内三地紙に根笹 華輪違』である。菩提寺は本所法恩寺の吉祥坊。
屋次(いえつぐ) 伊兵衛 ┃ 寛永3年(1626)御徒に召し加えられ、後組頭をへて富士見番を勤める。 ┃(三代将軍家光の時代) ┃ 久高(ひさたか) 次郎兵衛 ┃ 実は大類次郎左衛門尉某の男で、屋次の養子となる。 ┃ 寛文10年(1670)12月26日家を継ぎ、のち御徒目付を勤め、 ┃ 小細工奉行となる。そののち鳩留のことにより越度ありて追放せられ、 ┃ (=元禄元年(1688)5月29日、法令違反を理由に処罰される) ┃ 元禄5年(1694)5月9日召し返されて御目付の支配となる。 ┃(四代将軍家綱〜五代将軍綱吉の時代) ┃ 久寛(ひさひろ) 次太夫、次郎兵衛 ┃ 元禄8年(1697)7月11日家を継ぎ、 ┃ その後富士見御宝蔵番を勤める。 ┃(五代将軍綱吉の時代) ┃ 久矩(ひさのり) 十蔵、伊兵衛 ┃ 実は大塚氏の男。久寛の養子となる。 ┃ 享保8年(1723)7月23日家を継ぎ、のち富士見御宝蔵番となる。 ┃(八代将軍吉宗の時代) ┃ 久方(ひさかた) 権太郎、次郎兵衛、次郎助 ┃ 母は津田小七郎定直の女。寛延元年(1748)12月3日家を継ぐ。 ┃ 後支配勘定を勤め、明和2年(1765)8月13日班を進められて御勘定となる。 ┃ 廩米百俵。同5年(1768)7月24日死す。年50。法名は日喜。 ┃ 本所法恩寺の吉祥坊に葬る。妻は山本市左衛門成秀の女。 ┃(九代将軍家重〜十代将軍家治の時代) ┃ ┃┏為久(ためひさ)━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃┃ 権太郎、次郎左衛門 ┃ ┃┃ 母は成秀の女。 ┃ ┃┃ 明和5年(1768)月5日小普請となる。 ┃ ┃┃ このとき25歳、廩米百俵。 ┃ ┃┃ 翌6年(1769)11月16日西城の小十人となり、 ┃ ┃┃ 安永8年(1779)4月16日より本城に勤仕し、 ┃ ┗┫ 12月14日番を辞す。 ┃ ┃ 妻は河津弥次祐綏の女。 ┃ ┃(十代将軍家治〜十一代将軍家斉の時代) ┃ ┃ ┃ ┣女子(大河内源左衛門某の妻となり、 ┃ ┃ 離婚の後、馬場與左衛門信景に嫁す) ┃ ┃ ┃ ┗女子 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┃┏久豊(ひさとよ) 権太郎、母は祐綏の女。 ┃┃ ┃┣屋久(いえひさ) 荒四郎 ┃┃ ┗╋女子(山本安兵衛秀門の妻) ┃ ┣女子(中山平蔵信承の妻) ┃ ┗女子
『寛政重修諸家譜』巻二十