平安時代〜鎌倉時代

平安時代

  • 『上野国郡村誌』下大類村の諏訪社の社伝
    • 承保元年(1074)甲寅 3月17日大流井(おほるゐ)庄、諏訪若獅子明神分遷祠、毎郷八十八所云々。
      (大流井(大類)氏が当地に諏訪神社の上社・下社を勧請し、島名郷から分出した)
    • 永保元年(1081)辛酉 大類太郎重道造営。
      (このころ、大類氏と名乗ったと考えられる)
    • 康治2年(1142)癸亥 大類三郎重光修繕、尓後(そののち)大類氏世々修繕云々。
  • 『平治物語』上巻「源氏勢汰(げんじ せいぞろへ)の事」の条
    「上野の国には、大胡、大室、大類(おほるゐ)太郎
    とあり、平治元年(1159)12月、平治の乱に際し京都で平清盛と戦い、敗れた源義朝配下の上野武士に大類太郎がいた。
  • 『吾妻鏡(東鑑)』第三巻「壽永三年二月五日」の条
    大類五郎左衛門尉行義は、寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦いで父の秩父行綱とともに源範頼に従い、そのときの功により武蔵国入間郡大類を賜った。(上野国群馬郡大類は間違い?)

鎌倉時代

  • 『曾我物語』巻第五
    建久4年(1193)4〜5月、源頼朝は三原(上信国境)・那須野(下野国)・富士野(駿河国)の各地で大規模な狩りをおこなった。なお三原から那須野に向かう途中、赤城(上野国)でも狩りをおこない、
    「大胡・大室・深栖・山上・寺尾・長野・那波・大類・新田・鳥山・佐野・佐貫・佐井・園田の人々」
    が、夜も昼も警護に当たったという。
  • 『諸本集成倭名類聚抄 外篇 (日本地理志料 ‐ 和名類聚抄国郡郷里部箋注)』
    「越生(おごせ)の郷、其の承元(1207-1211)宝治(1247-1249)間の文書に見る、即ち越生氏の邑する所、其の族に大類、堀籠、黒岩、鳴瀬の諸氏あり。所謂(いはゆる)児玉党也」
    とあり、宝治年間に越生郷に大類氏が住していたことがわかる。上野国から入間郡に移住したものであろう。
  • 『上野国郡村誌』『大類村史』など、大類村の伝承として
    応長(1311-1312)の頃には大類伊勢守源久清(おおるい いせのかみ みなもとの ひさきよ)という人が群馬郡大類の城主として居た。
  • 『上野人物志』
    大類氏の事蹟詳かならず、真を知り難しと雖(いえど)も、平治物語に上野国には大胡大室、大類太郎とありて、左馬頭源義朝、父子に随従して、京師に上り平治の役に戦功ありし一人なり是大類氏の文書に顕はれし始なるべし。降て鎌倉時代に至り、花園帝の応長年中、大類伊勢守なる者あり、此地に住し、爾来南北朝及足利戦国時代にかけて、大類弾正大類中務丞、武蔵七党のの児玉党に武者三郎行綱の子大類五郎左衛門行義、其子太郎季行二郎行定等見わる、何れも此地の領主にして、大類太郎の遠裔若くは他姓の領主なるべし、出自、事項明かならず、後考を俟つ。


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