武蔵国入間郡大類村(いるまぐん おおるいむら)

現:埼玉県入間郡毛呂山町大字大類

  • 県南部、越辺川(おっぺがわ)と高麗川(こまがわ)の両川にはさまれた台地上に位置する。
    • 字明神台(みょうじんだい)には大類氏館跡と伝える居館跡がある。
    • 『太平記』に見える、貞治2年(1363)6月17日の鎌倉公方足利基氏(あしかが もとうじ)と宇都宮氏綱(うつのみや うじつな)・芳賀禅可(はが ぜんか)入道との苦林野(にがばやしの)合戦の戦死者を、当地の十社(じっしゃ)神社(明治期に十首神社より改名という)に祀ったという伝承がある。
      『角川地名大辞典 埼玉県』
  • 入間郡大類村 幅員
    「東西九町十五間(約1,009m)、南北十三町十間(約1,436m)
    『武蔵国郡村誌』第5巻
  • 「大類村は、川越城及び江戸よりの行程前村に同じ。松山領にて入西(にっさい)に属す。按ずるに、大類氏は当国七党の一児玉党の人なるに、此辺(このへん)同じ児玉党なる越生(おごせ)氏等が住せし由を伝へたれば、当村も恐らくは大類行綱が一族など土着の地にして、在名をもて氏には名乗りしならん。とかく古き村なることは論なし、既に上野国群馬郡宿大類村は、昔児玉党大類氏の居住せし地なる由伝へり」
    『新編武蔵風土記稿』の大類村の条
  • 「大類村は児玉党の人なる大類行綱が一族など、土着して在名を名乗りしならん、とかく古き村なることは論なし、既に上野国群馬郡宿大類村も、昔児玉党大類氏の居住せし地なる由伝へり」
    『増補 大日本地名辞書』
  • 平治の乱で敗者側についた大類氏が移住し地名の由来となったという説がある。
    『大類村史』



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