南北朝時代〜室町時代〜戦国時代

南北朝時代

  • 『足利宰相関東下向宿次合戦注文』
    建武2年(1335)8月17日、筥根(はこね)合戦(箱根・竹ノ下の戦い)での分捕高名人数に
    「一所太平下 武蔵国住人大類五郎左衛門尉以下一党高名」
    と見え、武蔵に住んでいた大類氏が足利方に加わり、北条時行軍と戦った。
  • 『太平記』巻第三十「薩埵山合戦の事」の条
    大類弾正(おおるい だんじょう)・富田以下を宗(しゅう)として、児玉党十七人一所にして被討けり」
    とあり、正平6年/観応2年(1351)12月、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)における駿河国薩埵山(さったやま)合戦において、大類弾正(=孫太郎行光)らを宗主とする児玉党17人が、足利直義(あしかが ただよし)方として討死した。
  • 『長楽寺文書』「足利尊氏寄進状」の段
    「寄附 長楽寺普光庵 田中郷の内、田弐町、畠弐反、大類五郎左衛門尉の後家、尼了覚の知行分」
    とあり、正平8年/文和2年(1353)3月19日、足利尊氏の名で、新田郡田中郷の田畠を長楽寺普光庵に寄進させられた。了覚は新田一族田中氏の出で、大類氏に嫁したものとみられる。
    (筆者註:五郎左衛門尉=弾正か)

室町時代

  • 『鎌倉大草紙』『湘山星移集』(『改定史籍集覧』第12冊より)
    「児玉党には大類、倉賀野、丹党の者ども」
    とあり、応永23年(1416)8月の上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう)の乱に際し、大類氏や倉賀野氏の児玉党が上杉禅秀軍に加わった。
  • 『結城戦場記』
    永享12年(1440)の結城合戦では、大類中務丞(おおるい なかつかさじょう)が上野一揆(こうづけいっき)の一員として和田左京亮(わだ さきょうのすけ)とともに、城中の剛の者で桃井左衛門督(ももい さえもんのかみ)の伯父と号する入道「桃井僧」の首を取った。
    (筆者註:文献には「相討ち」とあるが、ここでは二人以上が協力して、一人の敵を討つことの意味である)
  • 『将軍足利義政感状写 御内書案』
    長禄4年(1460)4月28日、前年10月15日の上州佐貫庄(群馬県館林市)での羽継原合戦(はねつぐはらのかっせん)で、大類五郎左衛門尉の父(筆者註:大類行盛か)が上杉房定(うえすぎ ふささだ)に従い討死したことを慰撫するための御内書が、将軍足利義政によって遺族に下された。

戦国時代

  • 『関東幕注文』(『大日本古文書』 12巻 上杉家文書より)
    惣社衆(そうじゃしゅう)として大類弥六郎(おおるい やろくろう)の名が見え、惣社長尾氏(顕景)の被官として越後の長尾影虎(上杉謙信)に属した。永禄3年(1560)、影虎が上野や武蔵国などの武士団を動員して小田原北条氏に迫った際、その折の影虎軍の武将名と幕紋を列記している。
    大類弥六郎 うちハの内切竹にほうわう(団扇の内桐竹に鳳凰)」
    とある。この紋を用いているのは『関東幕注文』の中では、倉賀野左衛門五郎(倉賀野)、小幡次郎道佐(白倉)などいずれも武蔵七党の児玉党の諸将ばかりであった。
  • 『史料綜覧』巻11
    天正6年(1578)5月12日、武田勝頼、大類主水(おおるい もんど)に人質を還付す、萩原文書
    とあり、同年5月7日に武田勝頼が宇都宮国綱(うつのみや くにつな)を攻めて失敗したときの捕虜と考えられる。
    (筆者註:大類主水は宇都宮氏の家臣か)
  • 『宇都宮一門と譜代長老連名』
    史料中に以下の名前が見られる。
    • 宇都宮家旗本の士(宇都宮氏終期323名)として、大類左ヱ門
    • 国綱時代(1576-97)、家門譜代長老連名369名のうち、大類新五郎大類兵部
    • 文禄元年(1593)3月1日、朝鮮出陣の宇都宮勢として芳賀高武(はが たかたけ)の旗本に大類左ヱ門
  • 『埼玉苗字辞典』第1巻
    • 『上野国桐生氏家臣表』大類丹後守あり。児玉党大類氏の後裔にて、後に深谷上杉氏に仕え、上杉滅亡後は秋元氏に仕える。
    • 『秋元家譜』
      「深谷上杉氏滅亡後、秋元氏の家臣になり深谷七人衆と呼ばれた侍は、太陽寺某、岡谷左馬助泰繁、大沼十郎兵衛越後、大類権六丹後、多賀谷下総大学、荻谷与左衛門加賀、新居勘兵衛志摩の七人なり」
      と見ゆ。
    • 深谷七騎大類丹後守権六の後裔にて、『秋元家御家臣断絶録』
      大類源五右衛門、深谷第一の御譜代、二百石、先祖は大類丹後守」
      と見ゆ。


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