大類五郎左衛門尉行義の系譜
- 大類五郎左衛門尉行義(おおるいごろう さえもんのじょう ゆきよし)は、寿永3年(1184)一ノ谷の戦いで、父の秩父行綱(ちちぶ ゆきつな)とともに源範頼(みなもとの のりより)に従い、そのときの功により武蔵国入間郡大類を賜り、伯父成季(なりすえ)の養父白倉邑(しらくらむら)の地頭山田太郎重澄(やまだたろう しげすみ)の四女を娶った。
- 以下に大類行義以降の系譜を示す。
┏国行━━行光==行盛*━━有行**━━行長 ┃ (養子、同一人物) ┏季行╋時行 ┃ ┃ ┃ ┗朝行 【大類】行義━┫ ┃ ┏行長━━行光(弾正) ┃ ┃ ┗行定╋有行(**とは別人) ┃ ┗行盛* 注)*同一人物
『武藏七黨系圖』
『大類一族』
【大類】行義(大類五郎左衛門尉、大類氏の祖 ┃ 上野国群馬郡大類の地を賜り、同所に住し、大類氏を称す) ┃ ┃ ┏国行(大類太郎)━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏季行━━━━━━━━━╋時行(大類三郎、一に行定とも) ┃ ┃ ┃(大類太郎兵衛尉) ┃ ┃ ┃ ┃ ┗朝行(大類五郎) ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━┫ ┏行長(五郎)━━行光(孫太郎、一に源太郎、弾正。 ┃ ┃ ┃ 観応2年(1351)12月、 ┃ ┃ ┃ 足利尊氏と直義の戦に ┃ ┃ ┃ 駿河国の薩埵山で討死) ┃ ┗行定━╋有行(二郎左衛門尉) ┃ ┃ ┃ ┗行盛*(本家の養子となり家督を継ぎ五郎左衛門尉を名乗る) ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 行光(一に行定、行元とも、太郎左衛門尉) ‖ 行盛*(五郎左衛門尉、養嗣子) ┃ 有行(二郎左衛門尉とは別人) ┃ 行長
『武藏七黨系圖』
『大類一族』
『大類一族』
『武藏七黨系圖』以降
- 行光(弾正)の後については、武蔵七党流としては現在その系がない。ただ、文献上には、大類氏の氏人名が何人か残っている。
- 武蔵国入間郡大類に移住した大類氏が、永禄期までには他所へ移住したと考えられる史料が残っている。永禄2年(1559)に北条氏康(ほうじょう うじやす)が領国諸士普請役の帳として作らせた『小田原衆所領役帳』には、御馬廻衆の紫藤新六(しとう しんろく)の所領として次のように記されている。
「一 紫藤新六
拾八貫七百六拾三文 入西郡 大類 卯検地
六貫三百四拾伍文 同 大類之内
卅貫文 御蔵出
以上五十五貫百八文」
と見え、『新編武蔵風土記稿』によれば弘治元年(1555)乙卯に検地が行われた。
- 永禄2年(1559)に、紫藤氏が後北条氏の家臣として大類の地を所領として与えられていることからみて、この地にあった大類氏は、少なくともこれより以前に他所へ移住したのであろう。
『大類一族』