上野国群馬郡大類邑(ぐんまぐん おおるいむら)
現:群馬県高崎市上大類町、中大類町、下大類町、宿大類町、南大類町
- 榛名山南東方、烏川(からすがわ)左岸の前橋台地の西に位置する。
- 鎌倉期から見える地名。群馬郡のうち。井野川(いのがわ)の下流右岸にあたる。
- 寛元3年(1245)5月11日の渋谷定心(しぶや じょうしん)置文(おきぶみ)(入来院文書/群馬県史資料編6)に
「一、三郎分拾柒(十七)町〈河会〉、又大類分玖(九)町 但公事定田拾(十)町」
と見え、渋谷三郎明重(しぶや さぶろう あきしげ)に譲与されている。
これは建長2年(1250)10月20日の渋谷定心置文案(同前)にも
「一、三郎分 九町〈大類〉」
と同様に見える。 - 下って南北朝期の貞和2年(1346)11月26日の沙弥定円(しゃみ じょうえん)(渋谷重基)譲状(ゆずりじょう)案(同前)にも
「一、上野国大類田畠在家(ざいけ)等」
と見え、平次五郎重勝に譲っており、この頃まで渋谷氏の所領があったことが知られる。『角川日本地名大辞典 群馬県』
- 寛元3年(1245)5月11日の渋谷定心(しぶや じょうしん)置文(おきぶみ)(入来院文書/群馬県史資料編6)に
- 「伝へ云ふ。古(いにしへ)は大流井郷と云ふ、後大類庄と称す。永禄(1558-1569)中、上中下及宿南等の字を冠し五村に分つ」
『大日本国誌 上野国』
- 「大類と云ふこと、名義詳らかならず、和名抄、群馬郡島名郷(しまなのごう)の中にやあらん、此地に宿大類(しゅくおほるゐ)あり」
『増補 大日本地名辞書』
- 下大類村の諏訪社の社伝
- 承保元年(1074)甲寅 3月17日大流井(おほるゐ)庄、諏訪若獅子明神分遷祠、毎郷八十八所云々。
(大流井(大類)氏が当地に諏訪神社の上社・下社を勧請し、島名郷から分出した) - 永保元年(1081)辛酉 大類太郎重道(おおるい たろう しげみち)造営。
(このころ、大類氏と名乗ったと考えられる) - 康治2年(1142)癸亥 大類三郎重光(おおるい さぶろう しげみつ)修繕、尓後(そののち)大類氏世々修繕云々。
『上野国郡村誌』
- 承保元年(1074)甲寅 3月17日大流井(おほるゐ)庄、諏訪若獅子明神分遷祠、毎郷八十八所云々。
- 大類の名称は、古代からあった隣村の島名郷から分村した大類である。その頃は大流井庄と呼んでいた地域であった。島名氏から分出した大類太郎重道は、吉凶の運命学の縁起を担ぐ武士故に、その字句を語呂合わせして、大流井庄の字名をこの大類の字句に変えたのであろう。
『点と線で結んだ大類氏の興亡史』
- 大類の名称は、古くは大流井と書いた。その字句を大類に変えたのであろう。
『南大類町の民俗』
- 河川の土手の内側の敷を「流井(るゐ)」というが、井野川のこの辺りはかなり広い「流井」であったので、「大流井」という説がある。
『埼群古墳館』掲示板より
- 「大類」は「大流井」がもとになったもので、古い時代に暴れ川であった井野川の氾濫原からつけられた名であるともいわれている。
『高崎の地名 -たかさき町しるべ-』