武蔵七党のひとつ、児玉党一族の大類氏の出自について,調べ得た記録をまとめたWeb Siteです。

2009年4月 開設

大類氏とは

  • 上野国群馬郡大類(現:群馬県高崎市)を本拠とした武士団の姓。
    武蔵七党の一つ、児玉党有道(ありみち)氏一族で、平安時代末期に秩父平太行重(ちちぶ へいた ゆきしげ)の子孫、大類行義(大類五郎左衛門尉)から始まる。
抱き竹笹に釘抜

筆者家の家紋
『抱き竹笹に釘抜』

『武藏七黨系圖』
『新編 姓氏家系辞書』
『群馬県 姓氏家系大辞典』


大類氏の起こり

  • 大類氏が文献に初めて登場するのは、武士の台頭した平安時代末期、保元・平治(1156-1160)の頃であるといわれていたが、その約100年前の文献にも記載がある。
  • 中世武士は信仰していた神々を新任地に勧請(かんじょう)した。
    諏訪神が平安末期から軍神として武士に広く信仰されると、諏訪大社の分社が信濃国外にも勧請されるようになった。
  • 『上野国郡村誌』の下大類村の諏訪社の社伝には、以下の記述がある。
    • 承保元年(1074)甲寅 3月17日大流井(おほるゐ)庄、諏訪若獅子明神分遷祠、毎郷八十八所云々。
      (大流井(大類)氏が当地に諏訪神社の上社・下社を勧請し、島名郷から分出した)
    • 永保元年(1081)辛酉 大類太郎重道造営。
      (このころ、大類氏と名乗ったと考えられる)
    • 康治2年(1142)癸亥 大類三郎重光修繕、尓後(そののち)大類氏世々修繕云々。
  • 『平治物語』の「源氏勢汰(せいぞろへ)の事」の条(平治元年(1159))に
    「上野の国には、大胡、大室、大類(おほるゐ)太郎
    とあり、氏名が記されている。この大類太郎が出た頃は、武蔵・上野国などに輩出した東国武士団が源氏勢を盛り立て始めた時代である。そして、その中心勢力の中に武蔵七党の諸氏があった。
  • 武蔵七党には諸説あるが、大別して二通りある。その一つは『書言字考節用集』での丹治、私市、児玉、猪股、西野、横山、村山の各氏、もう一つは『武藏七黨系圖』での横山、猪股、野与、村山、西、児玉、丹の各氏である。大類氏は、この武蔵七党を構成する七党のうちで最も力を持っていた児玉党から出自している。
  • ただ、『武藏七黨系圖』の中で最初に大類氏が登場するのは、大類五郎左衛門尉行義(おおるいごろう さえもんのじょう ゆきよし)であり、『上野国郡村誌』『平治物語』に初見される「大類太郎」ではない。行義は「大類太郎」より数十〜百余年後(2〜4世代後)の人物である。そして現存する諸史料によれば、この大類五郎左衛門尉行義以降の系譜が記録に残っている。
  • また、西国において村上源氏の一流である赤松氏流大類氏もある。しかし、この流れの大類氏は戦国期以降であり、徳川幕臣としてその系譜が現存している。


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